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駅弁の挑戦③ 鉄道・車、旅のお供に活躍する「峠の釜めし」歴史秘話

百貨店やスーパーの駅弁大会で、必ずと言っていいほど人気上位にあがる「峠の釜めし」。益子焼の釜をそのままお土産として持ち帰り、気がつくと家に1つはあったりします。
人気も知名度も抜群の「峠の釜めし」ですが、実は経営危機がきっかけで誕生しました。

その歴史秘話を紐解いてみましょう。

全国で二番目に古い老舗駅弁屋「荻野屋」

「峠の釜めし」を販売する荻野屋の創業は古く、1885年(明治18年)10月。信越本線高崎駅〜横川駅間の開業と同時に誕生した、駅弁発祥の宇都宮駅に次いで二番目に古い、歴史のある駅弁屋です。

当初は徒歩で碓氷峠越えをする人のため、竹の皮にくるんだおにぎりを提供していたそう。

その後、1893年(明治26年)に横川〜軽井沢間が延伸。
碓氷峠の急勾配を越えるアプト式の特殊な機関車に取り替えられるため、横川駅は乗降客が少ないながらもまとまった停車時間が取れる駅として、軽井沢への観光客や新潟方面の乗客で当時からごった返していたようです。

乗客はいるのに……。不遇な横川駅

横川駅は一見すると駅弁販売にうってつけの駅のようですが、軽井沢や新潟方面の乗客は高崎駅で、東京方面の乗客は軽井沢駅で、上下線とも周辺の大きな駅で駅弁を購入してしまい、横川駅で買う人はわずかでした。そのため、「お客が目の前にいるのに売れない。そもそも駅弁を売っていることすら知られていない。」という状況でした。

1953年(昭和28年)亡くなった夫の跡を継ぎ、4代目社長になった高見澤みねじさんは、10〜30分列車の停車時間を利用し、乗客に対し徹底的な聞き込みを開始。

「どんな弁当を食べたいか」を尋ねて、得られた結果が
「家庭的な温かい弁当」でした。

経営難を打破するため、「冷めても美味しい」駅弁の、常識を覆す挑戦が始まりました。

ご当地駅弁「峠の釜めし」誕生

まず、保温性を求めて容器は益子焼を採用。
家庭的な素朴さを出すため、地元食材や郷土の味付けをほどこし、ご飯は炊き込みに。駅前店舗で作った弁当をアツアツの状態でホームに届けて提供するという、「峠の釜めし」の原型ができたのは1957年(昭和32年)。

試行錯誤を重ね、なんと5年の歳月がかかりました。

発売当初は陶器が重いと販売員からは不評で、1日50個も売れれば良いほうでした。そこから口コミやメディア効果がじわじわ広がり、全国区のヒット商品へと育ちました。

冷めても美味しいが常識の駅弁ですが、「家庭的な温かい弁当が食べたい」という顧客ニーズを把握してしっかり応えた結果、ご当地駅弁「峠の釜めし」は誕生したのです。

ドライブインでも販売する「駅弁」

荻野屋で見逃せないのが、高速サービスエリアをはじめとするロードサイド戦略。昨今、新型コロナウイルス禍の影響で苦戦を強いられているものの、当初から「峠の釜めし」は、駅弁事業者としては画期的な戦略を講じてきました。

まず1962年、
横川駅前に「峠の釜めしおぎのやドライブイン横川店」をオープン。

なぜ鉄道と競合するような場所にわざわざ店を構えたの? と思われるかもしれませんが、実は横川駅は軽井沢へとつながる国道18号線に面しており、車利用客向けに店頭販売をしていて、すでに評判になっていたのです。

その後、高速道路網の広がりとともに「峠の釜めしおぎのやドライブイン」も拡大。1983年の中央自動車道全線開通に合わせ諏訪IC前に、1993年の上信越自動車道開通に合わせ横川SA内にと、積極的に店舗をオープンさせていきました。

「峠の釜めし」の今

北陸新幹線開業と同時に、信越本線横川〜軽井沢間が廃止となった際は、いよいよ「峠の釜めし」もピンチかと騒がれましたが、「碓氷峠鉄道文化むら」の開業や富岡製糸場の世界遺産認定が追い風となり、横川本店はいまも元気に営業中。
銀座SIXをはじめ、東京都内の街中にも直営店を展開しています。

最近では、人気アニメ「エヴァンゲリオン」とコラボした「エヴァンゲリオン初号機ver.」が大ヒットするなど、定番の味をベースにしながら進化が止まりません。

いつ食べても変わらない、でも新しい。
「峠の釜めし」のこれからも見逃せませんね。

この記事を書いてくれた人:江戸川渓谷(えどがわけいこく)
プロフィール:三度の飯とおにぎりが好き。趣味は道の駅めぐりに商店街散策、メタボ対策のトレッキング。うまいものは足で稼ぐのが信条。ゲットした惣菜で晩酌するのが最近の楽しみ。


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