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ごはんを主食とした学校給食は、米余りがきっかけだった?

令和6年の夏、
人生二度目の米不足を経験するとは……。

実は学校給食の長い歴史でも米不足・米余りの時期がありました。児童・生徒の心身の健全な発達のため、正しい食の知識と習慣を身につけるためなど、学校給食の役割は多岐に渡っていますね。

今回は、学校給食の歴史を紐解いてみたいと思います。

お寺発! 学校給食がスタート

日本最初の学校給食は、明治時代まで遡ります。
現在の山形県鶴岡市のお寺の中に建てられた小学校で、生活が苦しい家庭の子どもを対象に無償で昼食を提供したのが始まりとされています。

僧が家々を回りお経を唱えることで頂いたお米やお金で用意した献立は、おにぎり・焼鮭・菜の漬物でした。

明治から大正時代の終わりまでは、学校給食法などの法整備がされていませんでしたが、子どもたちの栄養サポートのために、徐々に学校給食は広がっていきました。
しかし戦争による食料不足によって、中止せざるを得ない状況に。そして戦後の食糧難の下、子どもたちの栄養状態が悪化したため、学校給食再開の要望が高まります。

学校給食法の公布。その時の献立は?

大正12年、児童の栄養改善のために学校給食が奨励されます。
このときの献立は、五色ごはんと栄養みそ汁でした。

昭和25年には、8大都市の小学校児童に対してアメリカから小麦粉が寄贈されます。そうして初めて完全給食が実施されたのでした。

昭和29年には「学校給食法」が成立。
この昭和20年代、30年代の給食メニューといえば、コッペパンと脱脂粉乳が主流でした。当時は捕鯨が推進されていたため、低カロリー高たんぱくな鯨肉を使ったメニューが人気。鯨肉の竜田揚げが給食のメニューに登場します。コッペパンは、ジャムを塗ったりおかずをはさんだりして食べていました。
主食にパンが出されたことで、日本人の食生活を変えるきっかけにもなったのだとか。昭和51年に米飯の給食が導入されるまでは、コッペパンが主食として定着していたそうです。

さかのぼること昭和33年には、学校給食に牛乳が登場。これを機に、脱脂粉乳は徐々に牛乳に置き換わっていきます。
主食のバリエーションも広がり、コッペパンのほかに揚げパンやぶどうパンといった調理パンも提供されます。

昭和40年代に入ると、関東地方を中心にソフト麺が主食として加わりました。

米余りがきっかけで、米飯給食が正式導入!

このように給食のメニューが多様化していく中で、子どもたちや保護者たちから「給食の主食にごはんを!」という声が上がります。
しかし各学校の給食室や地区の給食センターでは、ごはんを炊く設備がなかったため、学校給食制度上に米飯が正式導入されたのは昭和51年まで待つことになりました。

戦後不足していたお米は、増産が進められたことによって、今度は供給過剰のため米余りの現象が起こります。
そこで注目を集めたのが米飯給食。
新たに学校の給食室や給食センターでは炊飯施設を設置する取組みが始まりました。そうしてカレーライス、牛乳、スープ、野菜の塩もみ、果物の献立が誕生したのです。

現在の給食スタイル。人気メニューは昔から変わらない

平成17年の「食育基本法」の施行などにより、現代の学校給食では多彩なメニューが提供されています。例えば平成30年の平昌オリンピックのときには韓国料理が、令和元年のG20サミットの際にはイタリア料理やフランス料理が献立に取り入れられました。

また、学校の空き教室を給食専用に使う「ランチルーム給食」、校庭など外で食べる「アウトドア給食」や、子どもたちが食べたい給食メニューを提供する「リクエスト給食」といった新しいスタイルも登場しています。

このように学校給食の献立とスタイルが多様化する現代。
Z世代が選ぶ「好きな給食メニューTOP10」では、第1位「揚げパン」、第2位「フルーツポンチ」、第3位「カレーライス」という結果に。揚げパンもカレーライスも、学校給食の歴史の中で転機となったメニューですが、今も根強い人気を誇っていることが感慨深いです。

あなたの好きだった給食の献立は、何でしたか?

この記事を書いてくれた人:井上リエ
プロフィール:東京都在住。図書館司書を経て、ライター活動中。食べること料理すること、玄米とワインを愛する食いしん坊。
趣味はヨガ、旅行、ハーブの栽培で、健康と美容への探求心も旺盛。