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私たちの知らないお米の世界~稲作伝来からごはんを食べるまで~

古くから日本で親しまれているお米ですが……、

イネは本来、日本列島には自生していない熱帯性植物です。

それがどうやって日本に伝わり、現代まで作られてきたのか、意外にも知られていないかもしれません。
今回はそんな、私たちの知らないお米の世界へ!

イネはどこで生まれた?

イネは今から1万年くらい前に、中国南部~ラオス、タイ周辺に広がる山岳地帯で生まれたとされています。

ここを起点として、北の方に広がっていったのが寒さに強い「ジャポニカ」という品種です。
 
南に下り。
インドや東南アジアまで広がったものは「インディカ」という品種になりました。こちらは気温と湿度が高いところや、乾季と雨季がある気候での栽培に適しているようです。
 
さらに「インディカ」と同じように南に広がり、熱帯の高地で作られるようになったのが「ジャバニカ」です。寒さに強く乾燥した土地でも育ちます。やがてイタリアやアフリカの地中海沿岸、さらに南米にまで広がっていきました。

縄文~明治にかけて! 日本に稲作が伝わる

さて「ジャポニカ」が日本に伝わったのは、縄文時代の後期頃。
中国の揚子江や朝鮮半島あたりから、北九州に伝わったと考えられています。そして弥生時代中期には、本州の最北端、今の青森県周辺でもイネが作られていたようです。
 
静岡県の登呂遺跡からは弥生水田が発見されており、用水路も整備されていたことから、この頃には日本の稲作農業は完成されていたと考えられています。
北海道まで伝わったのは、長い年月を経た明治時代でした。
 
日本に稲作が定着した理由もいくつかあるようですが、

イネの栽培・収穫に日本の気候が適していたこと
お米が日本人の味の好みにあっていたこと

これらが、大きな要因だったようです。

煮るから炊くへ。今日もおいしいごはん

こうした稲作地帯ではごはんを中心に、魚・肉・野菜などの、おかずを添えるという食事スタイルが主流となっています。
日本では縄文・弥生時代に、米と水を土器で煮た「固がゆ(かたがゆ)」が作られていました。この水分の少ないおかゆが、白いごはんのルーツ。当時のお米は、煮たり蒸したりして食べるものだったようです。
 
奈良時代になると、「固がゆ」から「飯(いい)」が生まれます。
「飯」は「固がゆ」の水分をさらに少なくしたものです。
蒸し器で米を蒸した「強飯(こわいい)」も定番でした。1日2食、ごはんを主食に、汁ものとおかずを添えた一汁一菜のスタイルだったようです。
 
お米を炊くようになったのは、平安時代の末期から。
陶器や鉄のお釜が普及したため、お米を炊けるようになりました。蒸した「強飯」に比べて、炊いたお米は柔らかいため「姫飯(ひめいい)」と呼ばれていたそうです。
貴族の食事は、高杯に高盛りのごはん、そのまわりにおかずのお皿を並べるスタイルでした。おかずの量が少なくても種類が多いことに重点を置いていたと考えられています。
 
そして鎌倉時代の初めにかけて、土器製の羽釜が登場します。
これはかまどにかけるために、まわりにつば(羽)をつけたお釜のこと。より現代のごはんに近づきました。
 
江戸時代中期になると、1日3食が定着して現代に近い食生活に。また分厚いふたのある鉄釜が普及し、お米に2割増しの水を加えて水分を吸収するまで炊く「炊き干し法」が完成します。
いわゆる「初めチョロチョロ、中パッパ、赤子が泣いてもふたとるな」の炊き方ですね。これが現代まで伝わって、私たちは今日もおいしいごはんを食べています。
 
日本人の生き方や文化も、お米抜きでは語れません。日本人は米作りと共に生きて、長い年月をかけて”和”の精神を培ってきました。それは私たちのアイデンティティで心の支えにもなっているのかもしれません。
これからもおいしいお米を食べ続けていきたいと思います!

この記事を書いてくれた人:井上リエ
プロフィール:東京都在住。図書館司書を経て、ライター活動中。食べること料理すること、玄米とワインを愛する食いしん坊。
趣味はヨガ、旅行、ハーブの栽培で、健康と美容への探求心も旺盛。