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結核と並ぶ二大国民病だった「江戸患い(わずらい)」の原因は「白飯おにぎり」。

「江戸患い」をご存知ですか?
江戸を訪れた侍や大名が、原因不明の体調不良に陥ったという病です。

この「江戸患い」、実は現代でも発症し得る病気です。

戦乱の世の主役「おにぎり」

鎌倉時代から始まった武士の時代は、戦乱の歴史。
戦乱の世には「兵糧」を欠かすことができず、その主役こそ「おにぎり」でした。

鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が挙兵したことに始まる承久の乱。
時の権力者、北条政子が兵を集めるために使ったのが、当時大変貴重だった「コメ」と「梅干し」。
貴族階級しか口にすることができなかった食材につられて、なんと20万の兵が集まり、内乱を鎮めたといわれています。

また、戦国時代屈指の大行軍として知られる「中国大返し」。
備中高松城での毛利氏との戦いにあった羽柴秀吉が、本能寺の変による信長の自害を知り、速やかに講和を取りまとめ、兵におにぎりを振舞いながら、10日間で230kmもの距離を大移動。
見事、山崎の合戦で明智光秀を討ち取りました。

戦国時代の終焉と「江戸患い」の登場

その後、徳川家康が江戸幕府を開き、平和な時代が訪れると、江戸町人や武士の間では、原因不明の病気「江戸患い」が流行します。

「江戸患い」が発生したのは元禄年間(1688-1704年)頃。
この頃にコメの精製技術が発達し、今でいう「白米」が江戸町人の間で食べられるようになりました。

時を同じくして江戸前海苔の養殖も盛んになり、現在のおにぎりの原型である「白飯+海苔」が誕生したと言われています。

この江戸患い。不思議なもので病に罹った武士は、参勤交代で地元に戻ってしばらくすると自然に病が治り、江戸町人も、貧しいものは江戸患いには罹りませんでした。

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「江戸患い」の正体

おにぎりが兵糧として用いられていた頃は、使用するコメは古代米(赤米、黒米)が中心でした。
また江戸時代でも、地方の農民や貧しい町民たちは、高価な白米ではなく、主に玄米を食していました。
古代米や玄米のぬか層にはビタミン類や食物繊維が多く含まれており、コメだけでもある程度の栄養素を摂取することができます。

対して白米は、精米することによりビタミン類が相当減ってしまいます。
加えて、兵糧には梅干しや味噌といった栄養価の高い保存食が用いられ、江戸時代の農民たちも、野菜くずでカサ増しした、「かて飯」と呼ばれるおにぎりを食べていました。

裕福な江戸町人や江戸に参じた武士たちの食事は一汁一菜が基本で、玄米であれば摂取できたはずのビタミンB1が足りなかったようです。
「江戸患い」の正体は、ウイルス等による伝染病ではなく、ビタミンB1不足が引き起こす「脚気(かっけ)」だったのです。

この病は明治以降も続き、大正時代には結核と並び、二大国民病とまで言われていました。
食の乱れが叫ばれる現代においても起こりうる「江戸患い」。江戸時代のようにおにぎりメインの食事ではなくなったとはいえ、栄養の偏りには気をつけたいもの。特におにぎりはコメと具材の栄養バランスも考えながら、楽しんでみてください。

この記事を書いてくれた人:江戸川渓谷(えどがわけいこく)
プロフィール:三度の飯とおにぎりが好き。趣味は道の駅めぐりに商店街散策、メタボ対策のトレッキング。うまいものは足で稼ぐのが信条。ゲットした惣菜で晩酌するのが最近の楽しみ。