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地に足のついたブランド米。長野県の「五郎兵衛米」

「地に足のついたブランド米」……今回は長野県の「五郎兵衛米」について紹介します。

長野県は比較的標高が高く、気候は極端に暑くなることもなく、かつ山々から流れ出る清らかな水も相まって、各地で美味しいお米が収穫されています。

その中でも高級ブランド米として知られているのが「五郎兵衛米」です。

長野県佐久市の旧浅科村地区の、限られた地域「五郎兵衛新田」で栽培されているお米を指しますが、その栽培地域は400ヘクタールほどです。
長野県の田んぼの面積は51,500ヘクタールあるので、この「五郎兵衛米」が栽培される田んぼが占める割合は1%未満です。

なぜ「五郎兵衛米」はブランド米になれたのか

そのような狭い地域のお米が、なぜ「ブランド米」となったのでしょうか?

まずは栽培地域の歴史から見ていきましょう。

「五郎兵衛新田」とは、1631年(江戸時代前期)に市川五郎兵衛という人物が蓼科山から引いた用水路をもとに開拓された田んぼを指します。

つまり江戸時代の灌漑事業で生まれた耕地なのです。

この地はもともと荒れ果てた土地であり、耕作地ではありませんでした。しかし水さえ引けば豊かな土地になると考えた五郎兵衛は、水源を遠く離れた蓼科山に求め、そこから20キロメートルほどの用水路をつくり、この土地まで水を引くことに成功したのです。

「五郎兵衛米」が美味しい理由

ではここで収穫されるお米……もちろん美味しいことが大前提ですが、ではなぜ美味しいお米が収穫できるのでしょうか?

大きな特徴は土が「強粘土質」であるということです。
その強さは足を踏み入れると長靴が抜けない……だけではなく、農業機械も4~5年しかもたないほどの強さです。また稲刈り時にはしっかりと水を抜き、土を固めないとコンバインを入れることもできません。
粘土質であるということは水持ちがよく、稲に必要な栄養分をしっかりと抱え込みます。この地域はもともと山に囲まれた湖だったため、八ヶ岳や浅間山の火砕流から守られ、湖に蓄積された強粘性の土壌がこの狭いエリアに残ったのです。

江戸時代は現代のように様々な肥料があるわけではありませんので、その土壌がゆえに「美味しいお米」が昔から収穫されている……というのはうなずけます。現代であっても肥料切れを起こすことはなく、他の産地のように夏場に改めて肥料を撒く必要は無いそうです。

も美味しいお米がとれる要因です。
八ヶ岳連峰の北端に位置する蓼科山から清流を運ぶため、ミネラルたっぷりの伏流水のおかげで稲が健康に育つのです。
そのほか、佐久平の一部であり標高が高く寒暖の差が大きいこと(お盆過ぎになると日中は35度、夜は15度と20度近くの差があります)、高地なのでわりと乾燥しており「いもち病」にはなりにくいこと……などが挙げられます。

そして、生産量が少ないため、いきおい希少価値が高くなる……ということもあります。年間生産量は推定で240トンほど。日本人の年間消費量が680万トンほどですから滅多に口にすることが出来ないのもうなずけます。

五郎兵衛米の美味しさは口コミで各地に伝わったのですが、あるTV番組のニュースキャスターが、試食して「日本一うまい」と唸ったという逸話があり、それによりいちやく全国的に知られることになった……ということです。

私は今まで2回ほど現地に足を運びましたが、生産者によると「あまり宣伝しなくとも魚沼並みの値段で売れるため、大変助かっている」ということでした。それを反映してか400ヘクタールの地域に1,000戸くらい農家があるそうで、経営規模が小さい農家でも生活が成り立っていることの証左でもあります。
「五郎兵衛米」はこのように非常に歴史のあるお米であり、誰かが突発的に、意図して広めたブランド米では無いのです。その歴史の深さは、五郎兵衛新田で栽培されたお米の、間違いない美味しさを裏付けるものと言えるでしょう。

日本にはたくさんのブランド米がありますが、こういった歴史的観点から選ぶのも一つの方法だと思います。

この記事を書いてくれた人:小池理雄(小池精米店三代目)
1971年原宿生まれ。明治大学卒業後、会社勤務を経て2006年に小池精米店を継ぐ。五ツ星お米マイスター。テレビやラジオ、新聞、雑誌、ネット等のメディア出演多数。
共著「お米の世界へようこそ!」(経法ビジネス出版)