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江戸屋台メシの代名詞「天丼」

「天丼」といえば、今も昔も庶民の味。

カラッと揚げた天ぷらをごはんにのせて甘塩っぱいタレをかける、正式名称は“天ぷらどんぶり“で、「天丼」はその略称です。
ちなみに「天重」と「天丼」は、器が重箱か丼か、という違いです。

天ぷらはこのところ特に値上げの大きい油と小麦粉を使うため少々厳しい状況にありますが、最近まで大手チェーンではワンコインで堪能できた、今も昔も変わらぬ庶民の食。

今回は「天丼の歴史」に迫りたいと思います。

そもそも「天ぷら(てんぷら)」の起源は

現在多くの方がイメージする「てんぷら」は、魚介類や野菜に小麦粉を水で溶いた衣をつけて油で揚げたものです。

その「てんぷら」は一体どこから来たのでしょう。

一つ目は戦国時代、鉄砲の伝来とともに南蛮料理としてポルトガルから伝わったとされ、ポルトガル語の「テンポーラ(temporas)」が語源という説。カトリックで四季に行う斎日(テンポーラ)で祈祷と断食を行い、その間は肉食を禁じ、代わりに野菜や魚に小麦粉で衣をつけて揚げた料理を食べていたそうです。

また同じポルトガル語で料理という意味の「テンペーロ(tempero)」が転じたという説。

天麩羅阿希(あぶらあげ)から、漢字の阿希(あげ)を省いた「天麩羅」から「てんぷら」となったという説など、語源に関しては諸説あります。

江戸時代初期になると油の生産量が増え、天ぷらは江戸の"庶民の味"として徐々に広まっていきました。
江戸天ぷらは立ち食い屋台で、串に刺した天ぷらをおやつ感覚で食べていたそう。薄い衣で味も風味を残す程度にして、天つゆをつけて食べるスタイルでした。
一方、上方では琉球から薩摩経由で伝わった魚のすり身揚げ(さつま揚げ)を「てんぷら」と呼んでいました。
そのため今でも西日本の多くの地域では、魚のすり身揚げのことも「てんぷら」と呼ぶことが多いです。

屋台メシから登場した「天丼」

天丼の登場は江戸時代の末期。
鰻丼と同様、数ある丼の中でも特に歴史が古いとされています。
その鰻丼との共通点は“屋台メシ”であるということ。
はっきりした起源はわかりませんが、ちゃっちゃと食事を済ませたい人々が、屋台の定番であったてんぷらをご飯にのせ、つゆをぶっかけたのがはじまりのようです。
その後、ご飯にかける用に濃いタレが考案されるようになり、あっという間に庶民の間に広まりました。
 
天丼の発祥とされるお店も複数あり、元祖がどこかは定かではありません。
巨大かき揚げで有名だった「橋善」は、1831年に屋台の蕎麦屋として創業。
その後天ぷら専業となり、江戸末期の1865年に新橋に店舗を構えました(2002年閉店)。
浅草で1837年創業の三定は、今では少なくなった胡麻油で揚げた天ぷらを使用。伝統の天つゆにつけた天ぷらが溢れんばかりにのる天丼は、天丼激戦区の浅草で未だに人気を博しています。

「天丼」、のせる具材は

ところで、天丼にのせる天ぷらの具材にルールはあるのでしょうか?

結論から言えば、はっきりしたルールはありません。
野菜でも魚でも、天ぷらにすれば何でも天丼の具になりますが、やはり色味とバランスが大事。
魚介類でいえば海老やキス、イカ。
野菜でいえばナスやかぼちゃ、ししとうなど、
旬の食材も交えながら提供されるのが一般的です。
 
つゆのかけ方は二通り。
ごはんの上に天ぷらをのせてからつゆをかける方法と、煮立てたつゆに天ぷらをくぐらす方法があります。
江戸時代から続くのは後者で、天ぷらに味がしっかり染み込んでいるのが特徴。
つゆをくぐらすのが伝統的な江戸前天丼といってよいでしょう。

この記事を書いてくれた人:江戸川渓谷(えどがわけいこく)
プロフィール:三度の飯とおにぎりが好き。趣味は道の駅めぐりに商店街散策、メタボ対策のトレッキング。うまいものは足で稼ぐのが信条。ゲットした惣菜で晩酌するのが最近の楽しみ。