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[誰がブランドを決めるのか?]新潟コシヒカリ編

「ブランド米」……と言われて、皆さん何を思い浮かべますか?

例えばコシヒカリ、ササニシキ、あきたこまち、ひとめぼれ、つや姫、ゆめぴりか……あたりでしょうか。

しかし「ブランド米」には明確な定義はありません。

上記のような品種から帰納的にその定義を考えると「誰もが知っているお米で、かつ味が良いお米」になります。

各産地では、何とかして「わが県のお米を“ブランド米”に育てたい」という思いがあります。それは「ブランド米は高く売れる農業振興につながる」からです。

「ブランド米」と認知されるための方法とは?

「ブランド米」の作り方として代表的な方法が二つあります。

一つは各地で開催されているお米のコンテストで受賞したり、食味ランキングで「特A」に格付けされるなどし、その実績をもとに販路を広げる方法。

もう一つは広告代理店に依頼してイベント開催、メディア露出などを続けて認知されていく方法です。

しかし、そういったコンテストもなく、テレビもラジオもSNSもない時代においても、実はブランド米はありました。
例えば明治時代に流行ったのは「亀の尾」「愛国」「神力(しんりき)」というお米。これらは当時のお米の中では「育てやすい」「たくさん収穫できる」「味が良い」の3つの観点から優れていたのです。

そこまで遡らなくても、現在トップの生産量を誇る「コシヒカリ」。
デビューしたのは1956年(昭和31年)です。

当時はお米のコマーシャルなど無かった時代。当然SNSもありません。それが1979年(昭和54年)に当時トップの作付面積を誇っていた「日本晴」を抜いて1位となり、以後常に作付面積上位に位置しています。

コシヒカリは、新潟県で交配され、福井県で育成され、その後、新潟県に戻って奨励品種としてデビューしました。
デビュー当時はまだお米の供給が需要に追い付いておらず、お米には味よりも収量が求められていました。実はコシヒカリは倒れやすく育てにくい品種ですが、一部の人から味の良さを認められて何とかデビューに辿り着いたという経緯があります。
つまりコシヒカリは最近の新品種のように華々しくデビューした、という訳ではありませんでした。

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「ブランド米」として認知されるために

そのコシヒカリがどのようにして今の地位を築いたのでしょうか。そこにはコシヒカリの一大産地の新潟県の苦労を抜きにしては語れません。

今でこそ新潟県はお米の一大産地として知られていますが、昔は低湿地であったため水はけが悪く、水害がたびたびあるような地域だったのです。

江戸時代の「お米産地番付」によると、新潟県の格付けはかなり低くなっています。安定してお米が収穫できるようになったのは、1931年に稼働した大河津分水路をきっかけに干拓が進んだおかげなのです。

水田が整備され、徐々にコシヒカリの生産量が増えていった1960年代。
供給が需要を追い越すようになったのこのころに、自主流通米制度(国の直接の管理から外れて産地が卸業者などへ直接販売できる制度)が始まりました。「評判の高いお米は国が決めた価格では無く自由に価格設定して良い」ことになったのです。

この制度をきっかけに新潟県コシヒカリは、
美味しいお米 普通のお米よりも高値で取引米穀業者で話題 消費者へも漏れ伝わる……という流れで、徐々に評価が高まっていったのです。

特に魚沼産は評判が高く、普通のお米の価格との格差は60kgで最大2万円以上に広がりました。南魚沼市の資料によると、魚沼のコシヒカリが有名になったのは関東からのスキーなどの観光客が宿泊先で食べたお米があまりに美味しく、その評価が口コミで広がったのがきっかけ、ということです。

このように「ブランド米」とは味が良いことが大前提で、どのようにして広がったのかはケースによって異なります。
新潟コシヒカリについては継続的な産地の努力に加えて時代の流れがマッチした結果と言って良いでしょう。

この記事を書いてくれた人:小池理雄(小池精米店三代目)
1971年原宿生まれ。明治大学卒業後、会社勤務を経て2006年に小池精米店を継ぐ。五ツ星お米マイスター。テレビやラジオ、新聞、雑誌、ネット等のメディア出演多数。
共著「お米の世界へようこそ!」(経法ビジネス出版)